最近友人と電話で話をしている時、生きる意味の話になりました。
なんで生きるのかって一度は考えますよね。
昔から人間以外の動物も植物も子孫繫栄を目指しているけどそのつないだ先になにかあるわけでもないのになぜ生きるんだろう、意味ってあるんだろうかと思っていました。(個人が生きる意味、というのとは違って全体的に生きるということについてです)
全くネガティブな意味はなく単純に不思議だなあという感じです。この世界が存在する意味ってあるんだろうかみたいな。
生きる意味を考える必要はないんだと思うようになったのはいろいろな要因があるとは思いますが、その中でも倫理の授業は大きなものだったと思います。
高校生の時、倫理の授業が始まる前はなぜ、公教育の中で宗教について勉強しなければならないんだと思っていました。
倫理の先生の授業は恐ろしく睡魔を誘うもので1時間起きていたくてもなかなか難しかったです。それでも倫理の教科書や資料集はすごくおもしろいものでした。
特に倫理が好きになったのはセンター試験前の放課後補修でした。いつもは世界史を教えているおじいちゃん先生が担当してくれた補修はすごく楽しくていつも楽しみでした。ただ、問題を解いてみんなで答えて解説を聞くだけなんですけどね。
私は結構積極的に間違えにいくタイプでした。それでも先生は丁寧になぜ違うのかを教えてくださいました。先生に認められたいと思うと自主的に勉強するようになり段々正解することが増えていくのも楽しかったです。選択問題なのでクイズ感覚でした。
私は感覚で捉えていることが多いので間違っていることもあるかと思いますが、倫理の教科書や資料集をみていく中ですっごい昔の人が私なんかが考えているようなことはすでに考えていてその先にいるんだと思うとなんだか安心できました。そういうなかで生きる意味(使命感とかではない意味の)はなくてもよりよく生きることを目指したいと思うようになりました。宗教に対してなんか怪しい、よくわからないというイメージしかありませんでしたが何前年(もっと?)大切にされているだけあって知ればなるほどと思う考えもあると知りました。
人生に対する漠然とした不安はいまだにありますしたまにズルもしたくなります。でもやっぱり理想を見失わずによりよい自分に慣れるように日々を過ごしていきたいと思います。
今思うと友人との話はなぜ(生き物は)生きるのかという意味ではなく、個人がなぜ生きるのかという意味だったんだろうなと思います(笑)そうだとすると私は幸せになるために生きたいです。
余談ですが、その世界史の先生になぜ教員になったのか質問したことがありました。
大学生の時に卒論を書くとき、大学の教授が自分の質問に対して時間をかけてとことん付き合ってくださった。そういう教師になりたいと思った。(うろ覚え)とおっしゃっていてめっちゃ素敵!と思いました。実際私の間抜けな質問にもちゃんと答えてくれる超いい先生でした。私は世界史のカタカナ攻撃に耐えられず日本史に逃げましたが…。